高野山は関西ではいち早く紅葉が始まることで知られている。
とはいえ、まだ10月なのでさすがに早いかもしれないが、弘法大師さんにお会いに行った。
今回は高野山境内までケーブルカーで行ったので、登山はしていません。
歩行日:2019年10月26日
出発地:高野山路線バス・千手院橋バス停(9:30)
到着地:高野山路線バス・奥の院前バス停(15:00)
総歩行距離:13.8 km
今日のルート。
せっかくなので大門から参拝をスタートしたい。
しかし、ケーブルカー高野山駅から出発するバスはほとんどが奥の院方面行きであり、大門に向かうバスは本数が少ない。
そこで、やむを得ず、奥の院前行きバスに乗り、途中の千手院橋バス停で降車し、そこから大門までは歩くことにした。
南海電鉄・橋本駅には 8:10 に到着した。
ちょうど、観光列車「天空」が発車するところだったので、520 円を支払って指定券を購入した。
「天空」の車内。全ての座席から山の谷側を眺めることができる。
9:00、終点の極楽橋駅に到着。
以前はこの極楽橋駅から高野山まで歩いたが、今日はケーブルカーに乗り換える。
ケーブルカーの乗車時間は5分であり、すぐに高野山駅に到着した。
そこから、奥の院前行きのバスに乗り、9:30 に途中の千手院橋バス停で降車した。
千手院橋バス停からスタート地点の大門まで歩いた。
10:10、大門に到着。
明治初期までの女人禁制の時代では、女性はここまでしか参拝できなかった。
門には「日々出でて影向(ようごう)を欠かさずして、所々の遺跡(ゆいせき)を検知す」と書かれている。
弘法大師が千二百年間毎日ここに姿を現して、全国の困っている人を助けて回っているの意味。
そして、弘法大師はご縁を結んだ方の所に毎日今も助けに来てくれるとのこと(結縁、けちえん)。
阿形さんと吽形さん。
今日の気温は15度くらい。想像していたよりも気温は高かった。
大門付近には「七丁」の町石がある。以前、町石道を慈尊院(百八十丁)から 20km 歩いた。
大門をくぐり、東に進む。
五丁の町石。一丁は 110m で、ゴールは壇上伽藍である。
少し紅葉している。
四丁の町石。
三丁。
二丁。
そして最後の町石となる一丁石。藪の中にあるので見落とし注意。
10:25、一丁石から東へ 100m 進むと、壇上伽藍(だんじょうがらん)の入口にあたる「中門」に到着する。
大門には金剛力士像が祀られていたが、この中門は四天王がにらみをきかせている。
これは北を守る多聞天。
東を守る持国天。
西を守る広目天。胸のアブラゼミは「ミーミーという大きな声で魔を寄せ付けない」という意味がある。
南を守る増長天。トンボは前にしか飛ばないので、胸のトンボは「常に前進する強い意思」を表している。
中門をくぐると、正面には高野山総本山金剛峯寺の本堂にあたる「金堂」が見える。
金堂の本尊は阿閦(あしゅく)如来(薬師如来と同等と考えられる)。
200円を納め、金堂内を参拝した。
金堂内部は写真撮影禁止なので、テレビで放送されていたものを紹介する。
本尊の薬師如来は秘仏で厨子に安置されている。
左右の壁には、宇宙の真理となる胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅が飾られている。
金堂の隣には根本大塔。一階が四角、二階が円形となっている。
前回訪問した時は修復中であったが、本日は中に入ることができた。
根本大塔内部はもちろん撮影禁止なので、テレビ放送から紹介する。
まず「塗香(ずこう)」で手を清める。スパイシーな香りがした。
東寺の五重塔内部と同じく立体曼荼羅(まんだら)を形成している。
立体曼荼羅の中心は「宇宙の源」となる大日如来。
壇上伽藍(金堂と根本大塔)の御朱印。薬師如来と大日如来。
高野四郎とよばれる真っ白な鐘楼。
六角経蔵(ろっかくきょうぞう)。お経が収められている。
角のような取っ手を使って回すことができ、一周回すと中のお経を読んだのと同じ功徳が得られる。
筆者ももちろん回した。
高野山の地主神が安置されている山王院。
山王院の拝殿。
こちらは本殿。
西塔。根本大塔と異なり、素朴な色合いとなっている。
三鈷の松。
空海が唐に留学していたとき、「さて、日本のどこで密教道場を開けば良いものか」と思案し、
唐の港から三鈷杵を「えいや」と投げたところ、その三鈷杵は雲に乗り、海を越え、この松に引っかかったため、
ここ高野山に寺を開いたとのこと。
前回は三葉の松の葉を見つけることができなかったが、本日は簡単に見つけることができた。
この葉っぱは財布に入れておいた。
孔雀堂。
毒蛇を食べる孔雀の力を神格化した仏尊が、孔雀明王であり、全ての諸害を除去する明王として信仰されてきた。
准胝堂(じゅんていどう)。准胝観音が祀られている。
東に進む。
国宝となる不動堂。
不動堂の横にも紅葉が見られた。
愛染明王を祀った愛染堂。
大会堂。阿弥陀三尊が祀られている。
三昧堂。
東塔。
手水舎も真っ白。
壇上伽藍から金剛峯寺に向かう道は蛇腹道(じゃばらみち)とよばれ、紅葉の名所である。
まだまだ早いがわずかに紅葉を鑑賞できた。
11:45、次に、高野山の博物館である霊宝館を訪れる。
霊宝館には21もの国宝と多くの重要文化財が収められている。
内部は撮影禁止なので、テレビ放送から紹介する。
愛染明王坐像。重文。
快慶作の仏像。これが快慶作と分かったのは2014年のこと。
この四天王立像も快慶の作。
この弘法大師さんは陶器でできており、触れることにより縁を結ぶことができる。
12:35、霊宝館を出発し、少し東に進み、昼食は高野山境内唯一の中華料理屋である「ミッチー中華飯店」でとることにする。
高野山大学の学生さん用に手頃な金額で定食を提供しているとのこと。
筆者は酢豚定食を注文した。
13:05、腹ごしらえを終え、さらに東に進む。
苅萱堂の前を通り過ぎる。
13:15、一の橋に着いた。
ここは奥之院(弘法大師御廟)への正式な入口にあたる。
ここからおよそ 2km にわたり、墓や供養塔で挟まれた道を通っていく。
合掌、一礼後、参道に進む。
入るとすぐに様々な戦国武将の供養塔が見えてくる。
これは奥州・伊達家の供養塔。五輪塔という。
加賀・前田家の五輪塔。
五輪塔は、五つの石が重なってように見え、下から地・水・火・風・空を意味する。
薩摩・島津家の五輪塔。
東へ進む。
北条氏の墓所。
武田信玄・勝頼親子の五輪塔。
信玄供養塔と道を挟んで向かいには上杉謙信・上杉景勝の霊屋がある。謙信と景勝はおじ・おいの関係にあたる。
上杉家は五輪塔ではなく、廟が建てられていた。
ライバルだった武田信玄の供養塔とは目と鼻の先であり、まさに「川中島の戦い(1553年)」を再現している。
上杉謙信は自身を毘沙門天の生まれ変わりだと信じており、「毘」の旗が建てられていた。
また酒好きの謙信らしく、たくさんの日本酒がふるまわれていた。
関ケ原の合戦(1600年)の主人公・石田三成の五輪塔。
明智光秀の五輪塔。
なんでも、明智光秀の五輪塔だけは、何度修復してもすぐにひび割れするらしい。
「信長のたたり」という噂も。
先に、汗かき地蔵尊と「姿見の井戸」が見えてきた。
オン カカカビ サンマエイ ソワカ。
今回も無事に見えました。
パナソニックの企業墓。前回訪れた時は工事中だったが、今回はきれいに修復されていた。
さらに進む。
これは名もない人たちの五輪塔。
このように、高野山では、名だたる武将から一般の人々まで、多くの人がここに五輪塔を建て、
弘法大師のそばで安らかに眠りたいという願いを持っていたことが分かる。
お不動さん。
浄土宗開祖の法然上人の五輪塔。
松平秀康(徳川家康の次男)の霊屋。雰囲気ありすぎで、少し怖い感じもする。
なお、徳川家康の霊屋は女人堂から少し東に行ったところにある(以前紹介済み)。
太閤・秀吉の墓。
信長の墓。信長は比叡山に続き、高野山も焼き討ちしようとしたが、その信長も供養されている。
高野マキがたくさん供えられていた。左横は家臣・筒井順慶の五輪塔。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓所。
忠臣蔵の物語は、この人が切腹した後の赤穂浪士(あこうろうし)による復讐事件である。
14:00、「御廟橋(ごびょうばし)」に着いた。
ここから先は聖域中の聖域なので、脱帽かつ撮影禁止である。
奥に見えるのが燈籠堂(とうろうどう)で、さらにその奥に弘法大師が入定(にゅうじょう)されている御廟がある。
ここでも、合掌・一礼して進む。
弘法大師・御廟の参拝を終え、御朱印をいただいた。
この辺りは紅葉が進んでいる。
バス停に向かう途中、シロアリの墓。
ロケットのある墓。
「中の橋」方面へ向かう。奥がバス停である。
参道を出たので一礼。
少し寄り道して母校の供養塔へ向かう。
15:00、高校の供養塔へのお参りも済ませ、「奥の院前」バス停に着いた。
紅葉に関しては高野山でもさすがに少し早かったようだ。
11月初旬が見頃とのこと。
この日は遍路の白衣を着用した人が多いように思えた。
みんな満願したのだろう。
筆者もいずれは四国を回りたいものだ。