宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家であると同時に、稀代の芸術家でもある。
宮本武蔵の代表画『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』
モズと枝を這い上る虫が、静と動の対比を表現している。
宮本武蔵は、60 戦無敗の剣豪であるが、代表的な勝負は「吉岡一門との戦い」と「巌流島の佐々木小次郎との決闘」であろう。
本日は、吉岡道場の一門数十人と決闘した地である一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)と武蔵ゆかりの八大神社を訪問した。
一乗寺下り松の位置。
参拝日:2021年3月20日
銀閣寺より少し北の一帯は、一乗寺とよばれる。
昔は一乗寺という天台宗の寺があったのだが、延暦寺派ではなく、どちらかというと園城寺派(三井寺派)であり、ことごとく焼かれたという歴史がある。
今日は京都駅から市バスに乗り、一乗寺に向かう。
7:23 発の銀閣寺・岩倉行きの 5 系統バスに乗る。
8 時に一乗寺下り松町バス停に到着。
バスを降りて少し歩くと、決闘の地「一乗寺下り松」に着く。
この松は5代目とのこと。
決闘の時期の松は八大神社に祀られている。
宮本、吉岡・決闘の地。
武蔵にとって、生涯の決闘の中で最も重要だったのが、「吉岡一門」との決闘だといわれている。
結果は引き分けだったといわれているが、宮本武蔵はここでの決闘により剣豪の名を日本中に轟かせた。
楠木正成が足利軍と対峙(たいじ)して、この地に陣を構えたことも伝わっている。
武蔵が決闘の直前に立ち寄ったといわれる八大神社(はちだいじんじゃ)に筆者も訪問してみる。
一の鳥居が「一乗寺下り松」の近くにある。
東に進む。
この辺りの地名は一乗寺。
5分ほど東に進むことで八大神社に到着。
八大神社のご祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)・八王子命(はちおうじのみこと)。
祇園の八坂神社と同じ祭神を祀り、「北の祇園社」ともよばれる。
八大神社の手水。
八大神社の本殿。
狛犬。
吉岡一門との決闘を控えた 21 歳の宮本武蔵は、さすがに緊張したと思われ、そしてこの本殿を参拝した。
しかし、『我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず』との言葉を残し、勝利祈願はしなかったという。
武蔵は、死ぬかもしれないという境遇の中、神仏に頼らず、自分の力で闘いをしようと考えたのだろう。
本殿前の立砂(たてすな)。清めのお砂。
21歳の頃だろうか。
宮本武蔵といえば二刀流。
一乗寺下り松での決闘を見届けたと思われる古木が祀られている。
皇大神宮社(摂社)。
伊勢神宮の外宮と内宮と同じく、豊受大御神(とようけのおおみかみ)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。
日吉社、八幡社など、他にもたくさんの摂社がある。
お稲荷さん。
筆者は8時30分頃に着いたが、じっくり参拝していると御朱印受付時間の 9 時になったので、御朱印をいただいた。
宮本武蔵の二刀流の印が入っていた。
社務所を後にする。
一乗寺降魔(ごうま)不動明王という祠があったので、参拝する(由緒は不明)。
この後、狸谷山不動院を参拝するが、これについては別の記事でご紹介する。
狸谷山不動院を参拝後、再び戻ってきて土産を購入しに向かう。
まず、立ち寄ったのはきらら漬けの店『穂野出』さん。
平安時代、比叡山から雲母坂(きららざか)を下って都に行く途中、ここに立ち寄って休憩していたという茶店。
今は、きらら漬けという、小茄子を味噌で漬けた漬物を売っている。
筆者にとっては、本で読んで知ってから、いつか行きたいと思っていた店である。
叡山僧兵のものかさまで飾られていた。
ここできらら漬けを試食させていただく。
購入したきらら漬け。
これがあれば、ご飯がいくらでもすすむ(^^)
次に立ち寄ったのは、『中谷』さん。
ここでは宮本武蔵ゆかりのお菓子を購入。
こしあんの中に栗が入った「武蔵」。
形状は、刀の「つば」をモチーフにしたのだとか。
あと、一乗寺といえばラーメン激戦区。
一乗寺駅に向かって西に向かう。
ラーメン二郎。
関東では有名なラーメン屋だが、筆者は食べたことがなかったので並んでみた。
11時開店で、11時15分に着いた時には、既に20人くらい並んでいて、結局食べるまでに45分かかった。
これが二郎系とまでいわれるラーメン。
とにかく量がものすごく多く、チャーシューも分厚い。
左上に見えるカリフラワーのようなものはニンニク。
味は、、、(ごめんなさい)
皆、量が多いから並んでいるのかな???
筆者は、天下一品とか一風堂とか希望軒の方が好みです。
量が多くて食べきれず、少し残して店を出る。
一乗寺駅から電車に乗って帰宅。
わずか 21 歳の若者が数十人を相手に生死をかけた決闘をするとはどのようなものか想像してみたが、なかなか困難であった。
ただ、八大神社本殿前で、神仏に頼らず己の力で闘おうと覚悟を決めた時の様子は、神社を訪れてみて想像することができた。
一乗寺下り松での決闘の後、吉岡一門からの報復から逃れるために宮本武蔵は東寺の智積院に身を寄せるが、そこで描いた「鷲の図」を見ても彼が高いレベルで文武両道を成し遂げていたことが分かる。
「勉強だけ出来てもダメ、スポーツだけ出来てもダメ」というのを彼から教えられた気がする。