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その他神社仏閣

東の比叡山・東叡山寛永寺(上野公園)

東叡山寛永寺は 1625 年、徳川三代将軍・家光公の勅願により、慈眼大師(じげんだいし)天海により開山された。
山号の東叡山とは東の比叡山の意味で、寺号の寛永寺とは、延暦寺が勅許を得て延暦という年号を寺号としたのと同様に、
寛永の年号を用いた。
それゆえ、根本中堂はもとより、琵琶湖竹生島(ちくぶじま)の宝厳寺を見立てた不忍池(しのばずのいけ)弁天堂や、
清水寺を模した舞台造りの清水観音堂などが建てられた。

最盛期には現在の上野公園全体が境内であり、江戸随一の大きさを誇ったが、慶応4年(=明治元年)の彰義隊の戦い(上野戦争)により、
伽藍の大部分が消失し、敷地も国に接収された。

現在では清水観音堂や不忍池弁天堂や五重塔など、戦火を免れた堂宇(どうう)が上野公園内に点在した状態となっている。

 

歩行日:2019年7月13日
出発地:JR 上野駅(13:20)
到着地:JR 上野駅(16:40)
総歩行距離:9.0 km

 

今日のルート。上野駅からスタートし、上野公園を一周して再び上野駅に戻ってくるルートである。

 

 

スタートは JR 上野駅。外国人観光客や動物園に行く家族連れなどでごった返していた。

 

 

上野公園内に入る。

 

 

大道芸人。

 

 

西郷隆盛像。
西郷隆盛と勝海舟(かつかいしゅう)が江戸城無血開城の会談を行った後、
それに反対する徳川家の家臣たちが彰義隊(しょうぎたい)という軍を結成してここ寛永寺に立て籠もった。
このとき西郷隆盛は軍を率いて彰義隊と戦った。
ちょうどこの辺りから西郷軍は攻め入ったとのこと。

 

 

そしてこれが彰義隊(しょうぎたい)の墓。
幕末の新政府軍と旧幕府軍の戦い(戊辰戦争)において、旧幕府軍は敗れる訳である。
その時、関西では鳥羽伏見の戦いなど激しい戦闘が行われたのと違って、関東ではあまり血なまぐさい戦闘は行われなかった(江戸城無血開城)。
しかし、ここ上野公園だけは幕府軍の残党が彰義隊を名乗って最後まで抵抗し、激戦が繰り広げられた。
この時にここにあった寛永寺の伽藍もほとんどが消失した。
怒った明治政府軍は、彰義隊兵士の死体を供養させずしばらくこの辺りに野ざらしにしたという。

 

 

寛永寺の境内図。上野恩賜公園全体を含んでいるが、大部分は東京都の管轄である。

 

 

清水観音堂。

 

 

遠くから見ると、清水寺のように舞台造りになっているのが分かる。
中央に見える変わった形の松は「月の松」。

 

 

正面から見た清水観音堂。本尊は千手観音(秘仏)。

 

 

清水観音堂から見た「月の松」。遠くには不忍池弁天堂が見える。
月の松は、歌川広重の「名所江戸百景」にも数えられる。

 

 

清水観音堂から下りる。

 

 

途中、上野動物園の入口を通る。弁天堂の横にあるので、弁天門と書かれている。

 

 

縁日のような雰囲気。

 

 

不忍池(しのばずのいけ)の中心に弁天堂はある。ハスの葉でいっぱいとなっている。

 

 

先に弁天堂が見えてきた。不忍池と弁天堂はそれぞれ、琵琶湖と竹生島(宝厳寺)に見立てられている。

 

 

弁天様にまみえる、はやる気持ちを抑え、その前に手水舎で心身を清める。

 

 

フグ供養碑。

 

 

弁天堂。

 

 

弁天堂の前には宇賀神さん

 

 

弁天堂内部。弁天さんは秘仏。代わりに御前立(おまえだち)を拝見できた。オン ソラソバテイエイ ソワカ。

 

 

弁天堂の横には大黒堂。オン マカキャラヤ ソワカ。

 

 

鐘楼(時鐘堂:じしょうどう)。

 

 

上野大仏さんへの階段。

 

 

上野大仏。青銅製の高さ 7m の大仏が作られたが、関東大震災により首が落ち、
胴体は太平洋戦争の軍需品製造の供出令により徴用された。
今では頭部のみ残存するが、「これ以上落ちない」ということで、合格大仏として受験生から崇拝されている。

 

 

在りし日の上野大仏。

 

 

上野大仏の横にはパゴダ(仏塔)が建てられ、薬師如来が祀られている。

 

 

上野大仏から少し北に行くと、上野東照宮に着く。
東照宮というのは徳川家を祭神とする神社のこと。

 

 

楼門。

 

 

楼門内部には三つ葉葵(みつばあおい)が見える。
三つ葉葵は徳川家の家紋で、水戸黄門の印籠としても有名。

 

 

金色殿に向かう途中、五重塔(旧寛永寺)が見える。五重塔は動物園の敷地内にあり、
五重塔を間近で見るには動物園に入場しないといけないので、筆者はここからで我慢する。

 

 

神楽殿。

 

 

金色殿。寛永寺を建立したのは家光(三代)なのだが、ここのご祭神は家康(初代)と吉宗(八代)と慶喜(十五代)なのはなぜだろう。

 

 

上野公園を出て、寛永寺の本堂(根本中堂)に向かう。
五重塔が見える。

 

 


途中、上野の黒門を通る。

 

 

さらに進むと、寛永寺本堂に着いた。

 

 

寛永寺は天台宗寺院であり、比叡山延暦寺と同じく、本堂は根本中堂(こんぽんちゅうどう)とよばれる。
山号は東の比叡山を意味する東叡山(とうえいざん)。

 

 

寛永寺の鐘楼。

 

 

根本中堂内部は撮影禁止なので、資料から。本尊は比叡山延暦寺と同じく、薬師如来。

 

 

寛永寺の御朱印。薬師如来は本当の名前は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)。
したがって、瑠璃殿と書かれている。

 

 

本堂を参拝した後は、トーハクに立ち寄る。
今は「奈良大和四寺のみほとけ」展が開催されている。

 

 

以前、室生寺で見た国宝・十一面観音像(「室生古道(仏隆寺~室生寺~大野寺)散策」参照)を見てきたが、
博物館で見ると横からも後ろからも見ることができ、新鮮であった。

トーハクを出て、上野駅に向かう。
途中、開山堂の横を通り過ぎる。
両大師と書かれているが、寛永寺を開山した慈眼大師・天海と天海の師匠である慈恵大師・良源を祀っているからである。
良源は元三大師ともよばれ、角大師の厄除け札で有名。

 

 

上野駅に戻ってきた。

根本中堂は上野公園から少し離れたこじんまりと存在していたが、お堂内部はさすがに堂々としたものであった。

比叡山延暦寺が京都の鬼門(北東)にあって、平安京を守ってきたのと同じように、
東叡山寛永寺は江戸城(皇居)の北東に位置し、首都を守っているのであろう。

かつての寺の境内が今では公園となっており、公園の様々なところに神社仏閣や史跡があり、とても興味深い体験であった。

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