今日は仲間と一緒に、紅葉狩りも兼ねて大原を散策した。
筆者の目的は二つあり、一つは三千院の往生極楽院の阿弥陀三尊を参拝することであり、
もう一つは前回時間の関係で参拝できなかった建礼門院の御陵を訪れることである。
皇后である建礼門院の夫は高倉天皇であり、そのため昨日は高倉天皇陵を訪れた。
歩行日:2019年12月1日
出発地:京都バス・大原バス停(9:00)
到着地:京都バス・大原バス停(16:30)
総歩行距離:11.2 km
公共交通機関を使って大原に行く場合、京都バス(京都市バスではないので注意)を使うことになる。
京都バスは京都駅からも出ているのだが、まだまだ観光客で混雑することが予想されたので、
京都地下鉄で終点の国際会館前駅まで行き、そこから京都バスに乗車した。
大原バス停で降車し、三千院に向かう。
門前町を東に進む。
右に見える川は「呂川(りょせん)」。
ちなみに北側には「律川(りっせん)」が流れており、両川に挟まれた地域で声明(しょうみょう)という仏教音楽が誕生した。
声明には呂曲と律曲があるが、酒に酔って「呂律(ろれつ)が回らない」の語源はここ大原からきている。
大原には、かつて焚き木や農産物を京の都へ運ぶ行商の女性がおり、大原女(おはらめ)という。
大原女は鎌倉時代から昭和30年頃まで活躍していたらしい。
大原女の人形が置かれていた。
大原女は、赤のたすきに紺色の着物がシンボルとなっている。
後述するが、建礼門院に仕えた阿波内侍(あわのないじ)が大原女の原型といわれる。
参道である「大原女の小径(こみち)」を東に進む。まだ紅葉は残っているようだ。
今日は漬物を買おうと思っていた。
京都の三大漬物は「千枚漬け」「すぐき」「しば漬け」である。
その中でも、大原は「しば漬け」発祥の地である。
この日立ち寄ったのは、テレビでもよく紹介されている「志ば久(しばきゅう)」さん。
筆者は「すぐき」と「しば漬け」を購入した。また後ほど別の店で千枚漬けも購入した。
「志ば久」名物の「アイスきゅうり」は漬物のおやつ。
9:30、そうこうするうちに、三千院に到着。
三千院は門跡(もんぜき)寺院であり、天台宗五箇室門跡の一つである。
三千院は苔庭も有名であり、コケの御朱印が飾られていた。
聚碧園(しゅうへきえん)という庭園。もみじの落葉も風流である。
客殿には伝教大師・最澄の掛軸。
客殿から宸殿(しんでん)に向かう。
庭園に木漏れ日が指していた。早起きした甲斐があったというものだ。
スギゴケの絨毯。
門跡寺院らしく宸殿があり、三千院の本尊は宸殿の薬師如来である。
撮影禁止だったので、テレビ放送から紹介する。
本尊は最澄自作であり秘仏なので、参拝者は御前立(おまえだち)を拝むことができる。
ちなみに、薬師如来の正式名は「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」である。
本尊の脇侍(わきじ)は、毘沙門天(びしゃもんてん)と救世観音(ぐぜかんのん)。
宸殿には「玉座(ぎょくざ)」がある。さすが門跡寺院である。
筆者が訪れたかった「往生極楽院」。この伽藍は重文であり、中の阿弥陀三尊は国宝である。
中は撮影禁止なので、テレビ放送から紹介する。
数ある阿弥陀三尊像の中でも、筆者は三千院(往生極楽院)のものが最もお気に入りである。
中央の阿弥陀如来の光背が大きいため、お堂の天井を船底型にする必要があった。
見とれるほかない。これぞ国宝である。
自分が往生するときには、このような形で迎えていただきたいと思う。
阿弥陀如来だけでなく、観音さんの表情も素晴らしい。
この角度で見ると、お尻を少し上げて前かがみになっているのがお分かりだと思う。
「大和座り」という座り方らしい。
勢至菩薩(せいしぼさつ)さんは合掌で迎えてくれた。
勢至菩薩は単独で見ることは稀で、阿弥陀三尊の一尊として登場する場合が多い。
阿弥陀三尊をめいいっぱい堪能して、往生極楽院を出る。
有名な「わらべ地蔵」。
弁天池。
三千院の御朱印。本尊の薬師如来と往生極楽院の阿弥陀三尊のものをいただいた。
三千院を出発し、昼食をとるために「音無の滝」までやってきた。
良忍上人など代々の声明法師は、この滝に向かって声明の習礼をされたという。
初めは声明の声が滝の音に消されて聞こえないが、稽古を重ねるに従って、滝の音と声明の声が和し、ついには滝の音が消えて、声明の声のみが朗々と聞こえるようになったと言う。
そのため、音無の滝と名付けられたという。
仲間の一人がサンドイッチを作ってきてくれたので、ここで滝の音を聞きながらいただいた。
お腹いっぱいになった後は、来迎院を訪れた。
ここは天台声明の修業の地として知られる。
鐘楼。
本堂。
テレビ放送から須弥壇(しゅみだん)を紹介する。
本尊は薬師如来(中央)、釈迦如来(向かって右側)、阿弥陀如来(向かって左側)。
脇侍は毘沙門天(右前)と不動明王(左前)。
声明は五線譜のような楽譜はなく、代わりに博士(はかせ)とよばれる譜面がある。
博士はこのようになっている。
13:05、来迎院を出発し、勝林院に到着した。ここも天台宗寺院である。
浄土宗の開祖である法然上人が素晴らしい問答を披露した「大原問答」はここで行われた。
勝林院の本尊は阿弥陀如来。少し面長で、顎がシャープな阿弥陀さんである。
北野天満宮から移設された十一面観音。
ノミの跡まではっきり見える。
勝林院の御朱印。「大原問答」。
次は、勝林院の子院である実行院を訪れる。
抹茶と和菓子をいただきながら、庭園を拝観する。至福のひと時。
実行院ではこの時期に咲く桜(不断桜)を見ることができる。
紅葉と桜を同時に見ることができるのも大原の楽しみの一つである。
実行院を出発して、次は最後の目的地である寂光院(じゃっこういん)を目指す。
山里を歩くのは気持ちがいい。
14:25、寂光院に着いた。
寂光院は三千院や勝林院から 1.5km ほど離れているが、
良い所なので大原に来られる際にはぜひ寂光院も訪れてみてください。
寂光院の隣には、建礼門院の御陵がある。
建礼門院・徳子(とくこ)は平清盛の娘であり、高倉天皇の妻である。
平家物語の終盤では平家の没落が描かれているが、その時の悲劇のヒロインが建礼門院である。
建礼門院の御陵。皇后陛下の御陵なので、宮内庁が管轄している。
寂光院の境内に入る。
建礼門院・徳子の夫である高倉天皇はわずか21歳で病死する。
また、1185年の壇ノ浦の戦いで、平家は滅びるのであるが、そのとき、
徳子は母・時子と息子である安徳天皇と共に入水する。
しかし、幸か不幸か、徳子だけが源氏によって助けられてしまう。
自分の目の前で母と息子を失い、夫も早くに亡くしてしまった徳子は、その後、尼となり、ここ寂光院で隠棲する。
平家物語は盲目の琵琶法師によって語り継がれた。
寂光院の本堂。本尊は地蔵菩薩。
寂光院本堂は 2000年5月9日未明に放火により全焼し、これは再建されたお堂である。
内陣は撮影禁止のため、テレビ放送からご紹介する。
本尊の地蔵菩薩も全焼したため、新しく作られた。
これは焼損する前の本尊・地蔵菩薩。
放火により本堂は全焼し、本尊である地蔵菩薩は焼損したが、それでも倒れることなく、二本の足で直立していた。
そのため、重要文化財は解かれることなく継続して指定されており、
今でも倉庫に保存され、特定日に一般公開されている。
しかも、地蔵菩薩の胎内からは、3000以上の胎内仏が無傷のまま発見された。
もはや奇跡としか言いようがなく、筆者には建礼門院の加護のように感じる。
建礼門院・徳子さん。
宮中時代からずっと建礼門院に仕え続けた阿波内侍(あわのないじ)。
この人が「大原女」のモデルといわれている。
建礼門院を哀れに感じた義父である後白河法皇(ごしらかわほうおう)はお忍びで寂光院の建礼門院を訪れている。
このことは平家物語のクライマックスで描写されており、「大原御幸(おおはらごこう)」とよばれている。
大原御幸の際、寂光院境内にある「汀の池(みぎわのいけ)」を見た後白河法皇が歌った和歌がある。
元々皇后陛下であった建礼門院が大原に来たばかりの時、村人たちは建礼門院に元気を出してもらうために、
しその葉で漬けたナスの漬物を献上した。
建礼門院は大層喜び、その漬物を「紫葉漬け(しばづけ)」と名付けた。これがしば漬けの由来だといわれている。
徳子はここで平家と家族の菩提を弔い続けて一生を終えたというが定かではない。
ただ、漬物を自身で漬けたり、仏に供える花を摘んだりして過ごしたということなので、
大原という地が彼女にとって癒しの場所になったのだろうと想像する。
焼損したお地蔵さんはこの倉庫に保管されている。
寂光院の御朱印。「地蔵尊」と書かれている。
帰り道の途中、「大原山荘足湯カフェ」で足湯につかりながら、「しそジュース」をいただいた。
今日は五人で歩きました。皆さん、付き合っていただき、どうもありがとうございました。
阿弥陀さんであっても、観音さんであっても、お不動さんであっても、どれ一つとして、同じお顔はなく、
それぞれに特徴があるのだなと思った。
これまで、多くの仏像を見てきたが、今のところ筆者のお気に入りの仏様ベスト3は、
1. 比叡山延暦寺・無動寺明王堂の不動明王
2. 大原三千院・往生極楽院の阿弥陀三尊
3. 熊野・青岸渡寺の如意輪観音
とうことになるかな。
これからもまだ見ぬ素晴らしい仏様に出会うのを楽しみにして歩き続けようと思う。