筆者の知る限り、明智光秀の胴塚は1箇所(京都市伏見区小栗栖(おぐるす)の明智藪)がある。
また、首塚は3箇所ある。
1.京都市東山区の祠
2.京都府亀岡市の谷性寺(こくしょうじ)
3.京都府宮津市の盛林寺(せいりんじ)
今回、この3番目の盛林寺を訪問した。
明智光秀は本能寺の変のあと、11 日目に秀吉との山崎の合戦に破れ死亡した。
これは三日天下といわれる(実際には11日天下)。
なぜ、光秀は豊臣秀吉に負けたのかについては、予想外の戦力不足だろう。
その11日間に種々の工作を行い、安土城を掌握し、朝廷に権力者として認めさせ、筒井順敬や細川藤孝に対しては仲間になるよう説得した。
その中で、光秀は自分の娘・たま(細川ガラシャ)を細川藤孝の息子・忠興に嫁がせていたこともあり、特に工作に成功するものと確信していた。
しかし、謀反者(むほんもの)にくみすることになることを恐れた細川家は無言を貫き、仲間になってもらえず結果的に戦力不足となってしまった。
かわいそうなのは、謀反者の娘となってしまった「たま」である。
細川藤孝はたまを幽閉し、その後たまは大久保山城(今の宮津市万年)で暮らすことになった。
さらに、後にはキリシタンとなって「ガラシャ」という洗礼名を受けるのだが、バテレン追放令などによって死ぬまで辛酸をなめることになる悲劇のヒロインである。
たまが宮津で暮らしている際に父・光秀の首を受け取ったという説が残っており、それが今回訪問した盛林寺である。
訪問日:2021年2月6日
盛林寺は京都府宮津市に位置するが、駐車場もなく、辺鄙な場所にポツンとある。
盛林寺の場所は写真の通り。
盛林寺の横には京都丹後鉄道・宮福線が走っている。
盛林寺に到着。
盛林寺の山号は大円山、宗派は曹洞宗。
本尊の釈迦牟尼仏を参拝する。
開山の記念碑であることが判明した塔婆。
光秀の首塚は本堂の裏山にある。
首塚に到着。
ここに光秀の首が奉納されたのかどうかは定かではないが、たまがこの付近で暮らしていることを考えると、首ではなくとも父親の遺髪か何かを供養した塔なのかもしれない。
いずれにせよ、首塚が3箇所、胴塚が1箇所計4箇所も知られている武将は他にはなく、明智光秀という人物は単なる謀反人ではない、何か人を惹きつけるものをもっていたのだろう。
筆者は、今回の大河ドラマのような人格者であったのではないかと信じている。