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京都市内歩き巡り(紫式部ゆかりの廬山寺~御所~本能寺跡~明智光秀の首塚)

皆さん、ご無沙汰しています。
決してさぼっているつもりはなかったのですが、台風やら何やらで歩くことができずじまいでした。
また、がんばって歩いてブログを書いていきますので、よろしくお願いします。

さて、来年の大河ドラマの主人公が明智光秀ということで、光秀関連のテレビ番組が最近数多く放送されているように思う。
そういった番組を見ているうち、筆者も直接訪れたいと思っていた。
そんな中、紫式部ゆかりの廬山寺(ろざんじ)が明智光秀の念持仏である地蔵菩薩を特別公開しているというので、雨の中、京都市内を散策することにした。

筆者のブログで京都の光秀関連というと、これまでに妙心寺の明智風呂を紹介したので、それ以外の場所を訪れた。

歩行日:2019年10月19日
出発地:京都地下鉄・今出川駅(11:00)
到着地:京都地下鉄・東山駅(15:15)
総歩行距離:13.7 km

11:00、出発は地下鉄・今出川駅。すぐ隣は同志社大学である。

京都では南北の通りと東西の通りの交差点がそのまま地名になっていることが多い。
ここは南北をはしる烏丸通り(からすまどおり)と東西をはしる今出川通りの交差点なので「烏丸今出川(からすまいまでがわ)」。

今出川通りを東に進む。写真左は同志社大学、道路を挟んで右側は京都御所。

今出川御門。

同志社大学横を通り過ぎる。

さらに今出川通りを東へ進む。

南北をはしる寺町通りと交差したところで右折し、南に進む。

寺町通りを南に進む。

11:20、廬山寺(ろざんじ)に着いた。
廬山寺の山号は廬山、宗派は天台宗系単立の天台圓淨宗。

廬山寺を開基したのは角大師でおなじみの元三大師・良源。

廬山寺は紫式部が源氏物語を執筆した場所として知られている。
また、この日は明智光秀の念持仏である地蔵菩薩が特別公開されていた。

廬山寺の境内に入り、手水舎(ちょうずしゃ)で身を清める。

元三大師堂。

鐘楼(しょうろう)。

本堂兼寺務所。ここで拝観料600円を納める。

本堂で本尊である阿弥陀三尊にお参りした。
その横には明智光秀の念持仏である地蔵菩薩が安置されていた。

そもそもなぜ光秀の念持仏がこの寺に安置されているのかということであるが、
織田信長による比叡山焼き討ちの際、廬山寺も比叡山の末寺と考えた信長は光秀に廬山寺を焼くよう命じた。
しかし、ときの正親町天皇(おおぎまちてんのう)は光秀に対し「廬山寺は戒律を守っている寺であるから焼かないよう」依頼した。
これにより焼き討ちは免れ、光秀の念持仏である地蔵菩薩が置かれたのであった。

光秀の念持仏である地蔵菩薩は撮影禁止であったので、テレビ放送からご紹介する。
中央のお地蔵さんが光秀の念持仏。右に不動明王、左に毘沙門天。

お地蔵さんのアップ写真。

戦のときも絶えず持ち歩いていたのだろう、お顔はずいぶん擦り減っている。

左下には毘沙門天。多くの武将は戦の仏様である毘沙門天を信仰していたとのこと。

我らがお不動さん💛

その向かいには、源氏庭。紫式部はこの庭を愛でながら源氏物語を書いたといわれる。
この庭は撮影オッケーであった。

庭には明智家の家紋である桔梗(ききょう)の花が咲いていた。

廬山寺の御朱印はいくつかあるが、これは「紫式部邸宅跡」。

本尊の阿弥陀三尊。

そして期間限定の明智光秀の御朱印。「地蔵菩薩」と記載されており、明智家の水色桔梗が描かれている。

11:50、廬山寺を出て、すぐ隣の清浄華院(しょうじょうけいん)にも立ち寄った。
清浄華院の宗派は浄土宗。開創は天台宗の慈覚大師・円仁であり、その後、法然により改宗された。
したがって、浄土宗寺院ではあるが、不動堂があり、護摩供も行われている。
また、比叡山延暦寺の千日回峰行では900日目から「京都大廻り」の行に入るが、その時阿闍梨様が立ち寄り、
わずかな時間休息をとるのがここ清浄華院である。

「山門不幸」の看板が立てられていた。寺の関係者が亡くなられたことを意味する。

清浄華院の手水舎。

かわいいお不動さん。

鐘楼。

御影堂。法然さんが祀られている。南無阿弥陀仏。

奥に見えるのが寺務所。

山王権現社と稲荷社。

不動堂。中に入ることができる。

お不動さん。本尊の「泣不動(なきふどう)」は秘仏なので拝むことはできない。

陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)。

外には「泣不動尊」ののぼり旗。

清浄華院の御朱印。「泣不動尊」。

本尊の阿弥陀三尊。

寺町通りを北に少し戻ると、奥に石薬師御門が見える。

石薬師御門をくぐり、御所内に入る。

遠くに「猿が辻(さるがつじ)」が見えてきた。
北東は鬼門の方角であり、鬼が御所内に入らないよう、北東の角だけは角が取られている。

こう見ると、角が取られているのが分かるかな。

また、北東(艮)に、猿を置くのもこの方角が鬼門であることを示している。

ちなみに、北西はこのように普通の角となっている。

南に進むと、西の方角に蛤御門(はまぐりごもん)が見えてきた。

12:45、蛤御門に到着。
ここは御存じの通り、「蛤御門の変(禁門の変ともいう)」の舞台となった場所であり、
幕末の1864年に長州藩と幕府軍とがここで激しい戦闘を行った。
銃刀だけでなく、大砲も使用されたらしい。

現在でも弾痕が生々しく残っている。

御所を出て、烏丸通りを南に進む。

13:15、次に訪れたのは高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)。
ここはあまり知られていないが、真田幸村(さなだゆきむら)ゆかりの神社である。
真田幸村というと和歌山県九度山(くどやま)の真田庵(さなだあん)や大阪城の真田丸が良く知られており、
大阪や和歌山にはゆかりがあるのだが、京都というとピンと来ない方もおられるかもしれない。

住宅地に挟まれて位置し、白い鳥居が一風変わっている。

拝殿。ご祭神は天照大神・八幡大神・春日大神。

神社にしては珍しく、お地蔵さんが安置されている。
しかし、このお地蔵さんこそが真田幸村の念持仏であり、九度山から移設された仏様なのである。

この石台をさすって頭を触ると知恵が授かるという。

高松神明神社を出発し、少し南に進む。

本能公園の横を通り過ぎる。

13:30、本能寺跡に到着。今でも本能寺という寺はここからもう少し東にあるが(後で訪れる)、
明智光秀による本能寺の変はここでおきた。今はマンションとなっている。
この辺りが本能寺の境内だったらしい。ということは織田信長が亡くなったのもこの付近だということである。
しかし、信長の遺体は結局見つからなかったということなので、もしかするとこの辺りでまだ眠っているのかもしれない。

「この付近、本能寺跡」

本能寺跡を出発し、東に進む。

13:45、京都の台所、「錦市場」に到着。

ここはすごい人だかりであった。外国人観光客が刺身や天ぷら、コロッケなどで舌鼓を打っていた。

14:05、河原町通りに出て、少し北に行くとかっぱ寿司に到着したが、何を隠そう、ここが近江屋事件がおきた場所である。
幕末の1867年、ここで坂本龍馬は暗殺された。
実行犯は新選組や京都見廻組など諸説あるが、いずれにせよ江戸幕府側の組織により実行された。

修学旅行生が大挙して押し寄せる新京極を北に進む。

14:20、しばらく歩くと本能寺に到着する。
しかし、先ほども述べたように実際に「本能寺の変」がおきたのはここではなく、少し西に行った「本能寺跡」である。
本能寺の宗派は法華宗。

本能寺の「能」という字は「能」ではなく、「䏻」となっている。
これは本能寺は幾度も火災に見舞われたので、「火が去る」といことで「ヒ」が「去」るにしたとのこと。

本堂。

信長御廟に向かう。

信長御廟。本能寺の変の際に信長の遺体は見つからなかったので、墓ではなく、供養塔となっている。

本能寺を出発し、河原町三条の交差点に出た。

河原町三条を東に進むと、「池田屋」という居酒屋に着いた。

ここは1864年の池田屋事件で長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した舞台となった場所であり、
この事件を境に近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)などの新選組が一躍有名になった。
筆者なんかは、近藤勇というと香取慎吾君の顔が浮かぶのだが、今の若い人には分からないかな。

高瀬川の横を通り過ぎる。

先に三条大橋が見える。

三条大橋は駅伝発祥の地として知られている。
しかし、もっと知っておいた方が良いことは、ここは三条河原といって処刑や処刑後の晒し首が行われたことだろう。
先ほど述べた新選組局長・近藤勇も東京で処刑された後、塩漬けにされた首を三条河原で晒された。
その他にも天下の大泥棒・石川五右衛門が釜茹でにされたのもここだし、
関ケ原の合戦で敗れた石田三成の首が晒されたのもここである。
今ではカップルが仲良く座っているが、そんなことは露とも知らないのだろうな。

さて、三条大橋から南東に進み、以前紹介した「行者橋」に着いた。

これは千日回峰行の阿闍梨様が京都大廻りで京都市内に入る際、この橋を渡る。

行者橋を渡り北に進む。

15:00、「餅寅」という和菓子屋に着いた。
実は、この横に明智光秀の首塚があり、この店の女将さんが首塚のお世話をされている。

店の横には首塚を示す石柱がある。

学生マンションに挟まれた、こんなところに首塚があるとは中々信じられない。
奥に木の立て看板がちらっと見える。

首塚に着いた。

厨子は閉ざされていた。

テレビで放送されていた厨子の中の光秀像。

教科書に出てくる明智光秀の一般的な肖像画は↓なので、ずいぶん異なっているように思える。

これが明智光秀の骨壺であるとのこと。

光秀公に手を合わせた後、石塔にも合掌させていただいた。
山崎の戦いでこの人が豊臣秀吉に勝っていたなら、歴史は今とは全く異なるものになっていただろうな。

さて、再び餅寅さんに立ち寄り、「光秀饅頭」を土産に買った。
京都は白みそであり、白みそあんの饅頭は抜群に美味しかった。

15:15、地下鉄・東山駅に到着し、帰途についた。

この翌日に天王山に登る予定があり、その予習として明智光秀ゆかりの地を歩いて回ってみたが、
それ以外にもたくさん回ってしまった。
まあ、他に予定もないし、一人で歩いているので、好きな時に好きな場所へ行けるという旅も中々良いものである。

しかし、京都という街は少し歩いただけで、次から次へと由緒ある史跡にたどり着くことができ、
あらためてすごい町だと実感した。
まだまだ訪れていない場所がたくさんあるはずなので、歴史を勉強して旅の予定を立てたいと思う。

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