普段、神社仏閣にあまり縁のない人にとっては「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という言葉はあまり聞きなれない単語かもしれません。
しかし、神仏習合を理解すれば、週末の趣味をもう一つ増やすための神社仏閣巡りが楽しくなることは間違いありません。
そこで、第 8 回となる今回は、神仏習合について、全く知らない人でも大丈夫なようにわかりやすく解説したいと思います。
神仏習合とは?
ある宗教が信仰されている場所に新しい宗教が入ってくると、それを排除しようとして戦争が起こります。
イスラエルとアラブ諸国との中東戦争などを見ていれば良く分かります。
日本でもかつてそのようなことがおきましたが、不思議なことに、争いが生じるどころか新旧の宗教が融合するという現象が起きました。
それまで八百万(やおよろず)の神を拝む神道(しんとう)が日本では信仰されてきました。
しかし、仏教が中国から伝来すると、神さまも仏さまも分け隔てなく、一緒に拝むという習慣ができあがったのです。
これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といい、日本特有の風習となりました。
皆さんも、お寺の中に鳥居や末社(小さな神社)が置かれているのをご覧になったことがあるかもしれません。
そういうわけで、神仏習合を知っておくと、神社仏閣巡りをしたときの楽しみと理解が増すのだと思います。
神仏習合の例
先日、ツイッターのハッシュタグで「#見た人もなにか無言で神仏習合をあげる」というものが流れていて、面白そうだったので僕もいくつかツイートしてみました。
ツイッターのフォローもよろしくお願いしますね(@phuket2727)。
これは僕がよく通る、ケーブルカー比叡山駅から無動寺谷へ行く途中の鳥居です。
お寺に向かう道に神社の象徴である鳥居があるのは一見すると不思議な感じがします。
次の例を見てみましょう。
これは勝尾寺というお寺で、三宝荒神(さんぽうこうじん)という神様を拝んでいます。
しかも、仏さまを拝むときに唱える真言を神さまの前で唱えています。
最後に、翼をまとった不動明王が大阪府箕面市におられますので、それを挙げてみました。
これは隠れキリシタンがバテレン追放令から逃れるために、お不動さんをエンジェルに見立てて拝んだということですが、これも広い意味では神仏習合となるでしょう。
他の方もたくさん挙げておられますので、ぜひツイッターで「#見た人もなにか無言で神仏習合をあげる」を検索してみてください。
これは京都・大原の勝林院の十一面観音さまですが、もともとは北野天満宮にあったものが移設されたということです。
神社に観音さまがおられたというのも不思議な感じがします。
厳島神社で有名な広島の宮島には五重塔があります。
一般的に、五重塔は仏教建築なわけですが、宮島の五重塔は豊国神社の境内にあります。
つまり、神社の中に五重塔があるのです。
さすがに、中の仏像は移設されたらしいですが。。。
他にも、日光東照宮にも五重塔がありますね。
日光東照宮の五重塔
このように、神仏習合においては神さまも仏さまも分け隔てなく、信仰されていたということがお分かりになったと思います。
日本で神仏習合がおきた理由
歴史的には、神道(しんとう)が栄えていた場所に後から仏教が入ってきたわけですが、なぜ争いも起きずに融合できたのでしょうか。
日本人が温厚だからという回答をされる方もいらっしゃるでしょう。
それも一理あるのかもしれませんが、最も大きな理由は神道が特殊な宗教だったからではないでしょうか。
開祖と経典
仏教は釈迦(ゴータマシッダールタ)が開祖で、経典はお経です。
キリスト教はイエスが開祖で、経典は聖書です。
イスラム教はムハンマドが開祖で、経典はコーランです。
ところが、神道には教義(教え)というものがありませんし、開祖もいません。
もともと、文字のない時代から発展した宗教なので、教義がないのももっともなことです。
また、今でこそ神社には本殿や拝殿などの建築物がありますが、もともと建物もありませんでした。
神道は、岩や木や山や滝などの八百万の神をお祀りしてきたので、建物が必要なかったのです。
したがって、教義があり、建築物があり、開祖もいる仏教は受け入れやすかったのかもしれません。
仏教形式のお葬式
以前申しましたように、神道では死を「穢れ(けがれ)」とみなします。
ですから、神道関係者にとっても、仏教が日本に入ってくることは葬式の役割を担ってもらうには好都合だったのでしょう。
権現(ごんげん)という呼び方
「権現」というと、僕は吉野の蔵王権現(ざおうごんげん)や熊野権現が頭に浮かびます。
「権現」を辞書で調べてみますと、「仏が人々を救うために仮の姿(神様)になって現れること」と書いてあります。
難しいことは分からないのですが、「神様でもあり仏様でもある」のが僕の権現に対する理解です。
吉野・金峯山寺の蔵王権現
修験道と役行者
お寺を回っていると、「修験道(しゅげんどう)」とか「役行者(えんのぎょうじゃ)」という言葉をよく耳にします。
山奥深くを修行者(山伏(やまぶし)といいます)が、ほら貝を吹きながら歩き回る姿をテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。
山伏
Wikipedia より
日本古来の山岳信仰(神道)と仏教とが融合して、新たにできた宗教が修験道です。
修験道の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)という人で、役小角(えんのおづぬ)ともよばれます。
この役行者さんは、山歩き町歩きをしていると、本当にいろんなところで出てくるので、覚えておいて損はない名前です。
恐山(青森)、白山(石川)、吉野山(奈良)、熊野三山など、多くの山が修験の道場となってきました。
役行者は、富士山も修験の山として幾度となく登っています。
修験道はまさに現在に残る神仏習合の証しといえるでしょう。
神宮寺と鎮守社
別当寺、宮寺(みやでら)などとも言うのですが、要するに神社を管理するお寺のことです。
昨年12月に、愛宕神社に登りましたが、案内板に「かつて白雲寺という神宮寺が実権を握っていた」と書かれていました。
日光東照宮に行かれたことのある方はお分かりでしょうが、隣に輪王寺というお寺があります。
輪王寺はかつて神宮寺として日光東照宮の運営権を完全に掌握していました。
必ずしもお寺の方が神社よりも立場が上というわけではないのですが、江戸時代まではこのような形でお寺が神社を管理していたのです。
また、逆にお寺を守る神社のことは鎮守社(ちんじゅしゃ)とよばれます。
その名残として、今でも多くの鎮守社がお寺の中にありますので、今度行かれるときによく観察してみてください。
神仏分離令と廃仏毀釈
このようにして、江戸時代までは神社とお寺がお互いに持ちつ持たれつの関係にあったわけですが、明治時代に入ると、神仏習合が突然断たれることになります。
明治元年(1868年)、明治新政府は神仏分離令を発令し、それまで境界のあいまいだった神社とお寺が完全に区別されることになりました。
ちなみに、日本で真っ先に神仏分離の対象となったのは「比叡山延暦寺と日吉大社」でした。
それだけ結びつきが強かったのでしょう。
なぜ、そのような法令を発出したのかというと、一番の目的は国家公認の宗教を江戸時代までの仏教から神道に変えるためでした。
神社から仏教色を一掃して「神仏習合」の慣習を禁止し、神社を天皇と国民をつなぐ場所にすることが、明治政府の意図でした。
しかし、そのような意図が大きく変えられていくことになります。
江戸時代までの日本は戸籍というものがなく、お寺が人民の出生と死亡を管理していました。
これを寺請制度(てらうけせいど)といいます。
必然的に人々はどこかのお寺に属することとなり(檀家(だんか))、お寺の権力が強大となっていきました。
それを苦々しく思っていた神官たちが神仏分離令を利用して民衆を暴徒化させ、徹底的に仏教施設を破壊しました。
これを廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といいます。
この運動はすさまじいもので、おびただしい数の仏像や仏具、寺院が破壊されました。
奈良の興福寺だけでも 2,000 点以上の仏像が破壊されたといいます。
今でも日本史の一大汚点といわれています。
明治天皇は当時16歳だったので、自分の意見を言える立場ではなかったと思いますが、後になってひどく悔やまれたといいます。
下の写真は、僕が比叡山の無動寺坂を歩いたときに撮った写真ですが、お地蔵さまの頭がありません。
これも廃仏毀釈の時に破壊されたものと思われます。
神仏分離令により国家宗教が神道に統一されたのですが、太平洋戦争の終結後、GHQ により国家神道の廃止が命じられました。
こうして、神道と仏教という二つの宗教の並立という現代になったわけですが、神仏習合や廃仏毀釈の名残は今なおたくさん見られます。
これから神社やお寺に参拝に行かれる方は、そこかしこにある歴史を見つけていただければと思います。
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寺社の楽しみ方
週末の趣味としての神社仏閣巡り(第 8 回)-神仏習合をわかりやすく
普段、神社仏閣にあまり縁のない人にとっては「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という言葉はあまり聞きなれない単語かもしれません。
しかし、神仏習合を理解すれば、週末の趣味をもう一つ増やすための神社仏閣巡りが楽しくなることは間違いありません。
そこで、第 8 回となる今回は、神仏習合について、全く知らない人でも大丈夫なようにわかりやすく解説したいと思います。
神仏習合とは?
ある宗教が信仰されている場所に新しい宗教が入ってくると、それを排除しようとして戦争が起こります。
イスラエルとアラブ諸国との中東戦争などを見ていれば良く分かります。
日本でもかつてそのようなことがおきましたが、不思議なことに、争いが生じるどころか新旧の宗教が融合するという現象が起きました。
それまで八百万(やおよろず)の神を拝む神道(しんとう)が日本では信仰されてきました。
しかし、仏教が中国から伝来すると、神さまも仏さまも分け隔てなく、一緒に拝むという習慣ができあがったのです。
これを神仏習合(しんぶつしゅうごう)といい、日本特有の風習となりました。
皆さんも、お寺の中に鳥居や末社(小さな神社)が置かれているのをご覧になったことがあるかもしれません。
そういうわけで、神仏習合を知っておくと、神社仏閣巡りをしたときの楽しみと理解が増すのだと思います。
神仏習合の例
先日、ツイッターのハッシュタグで「#見た人もなにか無言で神仏習合をあげる」というものが流れていて、面白そうだったので僕もいくつかツイートしてみました。
ツイッターのフォローもよろしくお願いしますね(@phuket2727)。
これは僕がよく通る、ケーブルカー比叡山駅から無動寺谷へ行く途中の鳥居です。
お寺に向かう道に神社の象徴である鳥居があるのは一見すると不思議な感じがします。
次の例を見てみましょう。
これは勝尾寺というお寺で、三宝荒神(さんぽうこうじん)という神様を拝んでいます。
しかも、仏さまを拝むときに唱える真言を神さまの前で唱えています。
最後に、翼をまとった不動明王が大阪府箕面市におられますので、それを挙げてみました。
これは隠れキリシタンがバテレン追放令から逃れるために、お不動さんをエンジェルに見立てて拝んだということですが、これも広い意味では神仏習合となるでしょう。
他の方もたくさん挙げておられますので、ぜひツイッターで「#見た人もなにか無言で神仏習合をあげる」を検索してみてください。
これは京都・大原の勝林院の十一面観音さまですが、もともとは北野天満宮にあったものが移設されたということです。
神社に観音さまがおられたというのも不思議な感じがします。
厳島神社で有名な広島の宮島には五重塔があります。
一般的に、五重塔は仏教建築なわけですが、宮島の五重塔は豊国神社の境内にあります。
つまり、神社の中に五重塔があるのです。
さすがに、中の仏像は移設されたらしいですが。。。
他にも、日光東照宮にも五重塔がありますね。
日光東照宮の五重塔
このように、神仏習合においては神さまも仏さまも分け隔てなく、信仰されていたということがお分かりになったと思います。
日本で神仏習合がおきた理由
歴史的には、神道(しんとう)が栄えていた場所に後から仏教が入ってきたわけですが、なぜ争いも起きずに融合できたのでしょうか。
日本人が温厚だからという回答をされる方もいらっしゃるでしょう。
それも一理あるのかもしれませんが、最も大きな理由は神道が特殊な宗教だったからではないでしょうか。
開祖と経典
仏教は釈迦(ゴータマシッダールタ)が開祖で、経典はお経です。
キリスト教はイエスが開祖で、経典は聖書です。
イスラム教はムハンマドが開祖で、経典はコーランです。
ところが、神道には教義(教え)というものがありませんし、開祖もいません。
もともと、文字のない時代から発展した宗教なので、教義がないのももっともなことです。
また、今でこそ神社には本殿や拝殿などの建築物がありますが、もともと建物もありませんでした。
神道は、岩や木や山や滝などの八百万の神をお祀りしてきたので、建物が必要なかったのです。
したがって、教義があり、建築物があり、開祖もいる仏教は受け入れやすかったのかもしれません。
仏教形式のお葬式
以前申しましたように、神道では死を「穢れ(けがれ)」とみなします。
ですから、神道関係者にとっても、仏教が日本に入ってくることは葬式の役割を担ってもらうには好都合だったのでしょう。
権現(ごんげん)という呼び方
「権現」というと、僕は吉野の蔵王権現(ざおうごんげん)や熊野権現が頭に浮かびます。
「権現」を辞書で調べてみますと、「仏が人々を救うために仮の姿(神様)になって現れること」と書いてあります。
難しいことは分からないのですが、「神様でもあり仏様でもある」のが僕の権現に対する理解です。
吉野・金峯山寺の蔵王権現
修験道と役行者
お寺を回っていると、「修験道(しゅげんどう)」とか「役行者(えんのぎょうじゃ)」という言葉をよく耳にします。
山奥深くを修行者(山伏(やまぶし)といいます)が、ほら貝を吹きながら歩き回る姿をテレビなどでご覧になったことがあるかもしれません。
山伏
Wikipedia より
日本古来の山岳信仰(神道)と仏教とが融合して、新たにできた宗教が修験道です。
修験道の開祖は役行者(えんのぎょうじゃ)という人で、役小角(えんのおづぬ)ともよばれます。
この役行者さんは、山歩き町歩きをしていると、本当にいろんなところで出てくるので、覚えておいて損はない名前です。
松尾寺の役行者
恐山(青森)、白山(石川)、吉野山(奈良)、熊野三山など、多くの山が修験の道場となってきました。
役行者は、富士山も修験の山として幾度となく登っています。
修験道はまさに現在に残る神仏習合の証しといえるでしょう。
神宮寺と鎮守社
別当寺、宮寺(みやでら)などとも言うのですが、要するに神社を管理するお寺のことです。
昨年12月に、愛宕神社に登りましたが、案内板に「かつて白雲寺という神宮寺が実権を握っていた」と書かれていました。
日光東照宮に行かれたことのある方はお分かりでしょうが、隣に輪王寺というお寺があります。
輪王寺はかつて神宮寺として日光東照宮の運営権を完全に掌握していました。
必ずしもお寺の方が神社よりも立場が上というわけではないのですが、江戸時代まではこのような形でお寺が神社を管理していたのです。
また、逆にお寺を守る神社のことは鎮守社(ちんじゅしゃ)とよばれます。
その名残として、今でも多くの鎮守社がお寺の中にありますので、今度行かれるときによく観察してみてください。
高野山の鎮守社
神仏分離令と廃仏毀釈
このようにして、江戸時代までは神社とお寺がお互いに持ちつ持たれつの関係にあったわけですが、明治時代に入ると、神仏習合が突然断たれることになります。
明治元年(1868年)、明治新政府は神仏分離令を発令し、それまで境界のあいまいだった神社とお寺が完全に区別されることになりました。
ちなみに、日本で真っ先に神仏分離の対象となったのは「比叡山延暦寺と日吉大社」でした。
それだけ結びつきが強かったのでしょう。
なぜ、そのような法令を発出したのかというと、一番の目的は国家公認の宗教を江戸時代までの仏教から神道に変えるためでした。
神社から仏教色を一掃して「神仏習合」の慣習を禁止し、神社を天皇と国民をつなぐ場所にすることが、明治政府の意図でした。
しかし、そのような意図が大きく変えられていくことになります。
江戸時代までの日本は戸籍というものがなく、お寺が人民の出生と死亡を管理していました。
これを寺請制度(てらうけせいど)といいます。
必然的に人々はどこかのお寺に属することとなり(檀家(だんか))、お寺の権力が強大となっていきました。
それを苦々しく思っていた神官たちが神仏分離令を利用して民衆を暴徒化させ、徹底的に仏教施設を破壊しました。
これを廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)といいます。
この運動はすさまじいもので、おびただしい数の仏像や仏具、寺院が破壊されました。
奈良の興福寺だけでも 2,000 点以上の仏像が破壊されたといいます。
今でも日本史の一大汚点といわれています。
明治天皇は当時16歳だったので、自分の意見を言える立場ではなかったと思いますが、後になってひどく悔やまれたといいます。
下の写真は、僕が比叡山の無動寺坂を歩いたときに撮った写真ですが、お地蔵さまの頭がありません。
これも廃仏毀釈の時に破壊されたものと思われます。
神仏分離令により国家宗教が神道に統一されたのですが、太平洋戦争の終結後、GHQ により国家神道の廃止が命じられました。
こうして、神道と仏教という二つの宗教の並立という現代になったわけですが、神仏習合や廃仏毀釈の名残は今なおたくさん見られます。
これから神社やお寺に参拝に行かれる方は、そこかしこにある歴史を見つけていただければと思います。
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