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寺社の楽しみ方 歴史

週末の趣味としての神社仏閣巡り(第 7 回)-明智光秀ゆかりの地探訪

この企画の第1回でも申しましたように、歴史が好きな方にとっても週末の趣味としてぜひ神社仏閣巡りをしていただきたいと思っています。

このブログを始めて気付かされたことは、当たり前かもしれませんが、歴史と関連深い道やお堂、建物が思いのほか多いということでした。
ちなみに、僕が好きな戦国武将は、上杉謙信と明智光秀です。
上杉謙信は最後まで「義」を貫いて生きた姿が美しいと思います。一方、明智光秀は文武の才能はあるのですが、いまひとつ運にめぐまれなかったという点が惹きつけらます。

上杉謙信ゆかりの場所ももちろん訪れたいのですが、大阪在住の僕からすれば、新潟は遠くてなかなか行くことができません。

明智光秀については、このブログを続けている間に、ゆかりの地をいつの間にかずいぶん訪れていました。
そこで今回は、これまでに訪れた明智光秀関連の場所をまとめてみたいと思います。

もともと明智光秀は浪人出身であり、そのため若い時の記録が残されておらず、それどころか正確な年齢も分かっていません。
おそらく五十数歳だと考えられています。
その五十数年の中で歴史の表舞台に立ったのは人生最後の十四年であり、この十四年の間に彼はただの浪人からほんの数日とはいえ、天下をとるにまで出世したことになります。

 

 

比叡山焼き討ち

織田信長は、宿敵であった浅井氏・朝倉氏をかくまっていた比叡山延暦寺に対し、中立を保つよう願い出ていました。
しかし、比叡山はこれを拒否したため、1571年、比叡山延暦寺の焼き討ちが実行されました。
このとき、最も積極的に焼き討ちを実行したのが明智光秀といわれています。
明智光秀はここで手柄をたて、信長の家臣の中で最初に城を持つ武将となることができました。
つまり、比叡山焼き討ちは光秀にとって出世のための出来事だったわけです。

下の写真は、無動寺坂といって比叡山・千日回峰行者の行者道ですが、光秀は焼き討ちのとき、この道を登って比叡山へと向かいました。

 

 

一方、対する比叡山側は武装した僧兵をこの大講堂前の広場に集めて、織田軍を迎え撃ったといいます。

 

比叡山焼き討ちで活躍し事後処理も任された光秀は、先にも述べましたように、織田家臣の中で最も早く城を任される武将となりました。
それが、下の写真の坂本という町に築城された坂本城です(現在は坂本城跡として跡地が残されています)。
写真にもありますように、明智家の家紋は水色の桔梗(ききょう)です。

 

 

 

本能寺の変

比叡山焼き討ち後の織田信長家臣の序列としては、明智光秀→羽柴秀吉→丹羽長秀、滝川一益、柴田勝家だったのではないかと思います(僕の偏見ですが)。
しかし、徐々に明智光秀と羽柴秀吉の順位が入れ替わることになっていきます。
決定的なのは、秀吉が備中高松城(岡山県)を攻めているとき、光秀が信長から「秀吉の加勢に行ってやれ」と言われたときではないでしょうか。

その他にも、信長が武田勝頼軍を討った際、徳川家康に大いに助けてもらったため、信長は家康を安土城でもてなす宴を開きました。
このときのエスコート役を任された光秀はあろうことか、琵琶湖名産の鮒寿司で家康をもてなそうとしました。
臭いのきつい鮒寿司に激怒した信長は家臣の目の前で光秀を叱りつけ、その頭をひっぱたいたところ、光秀のカツラが取れてしまったという話があります。

光秀がなぜ信長を裏切って謀反を起こしたのか、正確には分かりませんが、このようなことが積もり積もって決心したのではないかと思います。
本能寺の変(天正10年6月2日(1582年6月21日))の四日前、光秀は京都の愛宕神社(あたごじんじゃ)にいました。
そこであの有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉(さつきかな)」という句を詠み、決意を固めたといわれます。

愛宕神社は山上にあるため、結構ハードな登山でした。

 

山頂に愛宕神社はあります。
光秀は大吉が出るまで、三回おみくじをひいたといわれています。

 

そして愛宕山を下りた後、亀山城に戻りました。
そして、秀吉の加勢のために備中に行くと見せかけて、「敵は本能寺にあり」と言って、亀山城から信長のいる本能寺を目指しました。


亀山城跡

 

そして、天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、光秀は本能寺に滞在していた織田信長を襲撃しました。
本能寺のあった場所は、現在ではマンションが建っています。

 

 

 

実は、下の写真のように本能寺は今も存在しますが、ここは「本能寺の変」がおきた場所ではありません。
「本能寺の変」がおきたのは上述の本能寺跡であり、現存の本能寺は、「本能寺跡」から 2-3km 東の新京極というところにあります。


 

 

山崎の戦い

本能寺の変直後の光秀の足取りとしては、信長の城であった安土城を押さえ、朝廷から次の将軍のお墨付きをもらっています。
この時、信長の有力家臣たちは京都から離れた地にいました。
例えば、柴田勝家は越中(富山県)で上杉家と戦っていたし、羽柴秀吉は備中(岡山県)で毛利氏と戦っていました。
光秀は、羽柴秀吉が備中から京都に戻ってくるのに 30-50 日かかると予測していたようです。
それがわずか 10 日で戻ってきたのが大きな計算違いであり、秀吉のこの機敏な動きは「中国大返し」とよばれています。
何としても秀吉を京都に入れまいと考えた光秀は、長岡京(京都府長岡京市)に陣を構え、秀吉を迎え撃ちます。
これが天正10年6月13日(1582年7月2日)の「山崎の戦い」です。
本能寺の変からわずか11日後のことです。このとき、秀吉は天王山(京都府大山崎町)の宝積寺に本陣を置いています。

 

宝積寺

宝積寺境内にある出世石。
秀吉は、この石に座って陣頭指揮をとったといわれています。

 

宝積寺の三重塔。
秀吉が「山崎の戦い」に勝った記念に一晩で作ったということで、「一夜之塔」ともよばれています。

 

 

光秀の最期

僕も天王山に登ってみましたが、山の中腹から長岡京市街を見渡すことができました。
これでは明智軍の布陣は丸見えであり、圧倒的に不利であったろうと予想されました。
歴史に「たられば」はありませんが、仮に光秀が天王山に陣を構え、高槻辺りから進軍してくる秀吉軍を迎え撃っていれば、もしかすると形勢は逆転していたかもしれません。
もし、そうであれば、光秀はその時飯盛山(大阪府四条畷市)にいた徳川家康も討っていたかもしれません。
そうなると江戸幕府が存在しないことになり、歴史は大きく変わっていただろうと予想されます。

しかし、実際のところ、秀吉にフルボッコにされた光秀は長岡京市にあった勝竜寺城を経て、自身の居城であった坂本城に戻ることを決心します。
退却ルートは山崎→長岡京→伏見→山科→坂本です。
ところがその途中、伏見と山科の間にある小栗栖(おぐるす)という場所で、光秀は竹やぶから現れた落ち武者狩りに襲われ、竹槍で刺されてしまいます。
この竹やぶは今では「明智藪(あけちやぶ)」とよばれています。

 

このやぶの中で光秀は落ち武者狩りに襲われました。

 

 

 

おそらく明智光秀の信者が書いたのでしょう、「本能寺で悪魔退治をした光秀公」と記載されています。

 

 

光秀の胴塚と首塚

明智光秀は胴塚が一つ、首塚が三つ知られています。

明智藪での襲撃で自らの死期を悟った光秀は、家臣に自分の遺体を知恩院に奉納するよう命じます。
しかし、家臣の数はわずか15名で、しかも手負いの状態で、かつ周囲は敵だらけであり、
遺体を京都へ運ぶこともままなりません。
そこで、遺体を頭部と胴体に分け、胴体は明智藪から 2km ほど北に行ったところに埋葬した。
それが胴塚として今も残っています。下の写真の左が光秀の胴塚です。合掌。

 

 

一方、家臣たちは光秀の頭部を知恩院へ運ぼうとしていたが、敵が多すぎたため、手前の東山の辺りに埋葬しました。
これは首塚として今も残っています。

 

こんな狭い路地に名将・明智光秀の首塚があるとは、一見すると信じられません。

 

 

これが首塚です。合掌。

 

 

首塚の厨子内部は閉ざされていて見ることはできないので、テレビで放送されていたものをご紹介します。
厨子内の光秀像。

 

光秀像の下には骨壺が置かれていました。

 

光秀の首塚は、この和菓子屋の女将さんがお世話されています。

 

僕がここで買った「光秀饅頭」。明智家の桔梗紋が印字されていました。

 


京都府亀岡市にも明智光秀の首塚があるというので行ってみました。

 

別名「光秀寺」ともいわれる谷性寺(こくしょうじ)。

 

 

谷性寺の山門は明智山門とよばれます。

 

 

明智山門には明智家の家紋である桔梗紋が彫られていました。

 

 

これが明智光秀の首塚です。合掌。

 

 


京都府宮津市にある明智光秀の首塚に行ってみました。
本能寺の変の後、細川家に嫁いでいた光秀の娘・玉(細川ガラシャ)は、謀反の主犯光秀の娘という肩書にいたたまれなくなり、京都府宮津市の山奥でひっそりと暮らすことになります。
その玉のもとへ光秀の首が送り届けられたという説があり、この地に首塚が建立されています。

 

 

宮津市にある盛林寺(せいりんじ)。
駐車場がない、小さな曹洞宗のお寺である。

 

この盛林寺に首塚はある。

 

これが首塚です。合掌。

 

 

その他、光秀ゆかりの場所

高野山にも明智光秀の供養塔(五輪塔)があります。

 


 

光秀の五輪塔は、何度修復しても再度ひび割れするらしく、信長の怨念だといわれている。

 

かつて京都の妙心寺に密宗という僧侶がおり、彼は明智光秀の叔父に相当します。
密宗は、何とか光秀を弔ってやりたいと考えましたが、光秀は世間では謀反をおこした逆賊であり、堂々と供養ができません。
そこで、妙心寺に大きな風呂を作り、ここで密かに光秀を弔ったといわれており、「明智風呂」とよばれています。
500 円納めれば明智風呂の中を拝観できます(ただし撮影禁止)。

 


 

 

京都御所の隣にある廬山寺(ろざんじ)には明智光秀の念持仏である地蔵菩薩が祀られています。
信長は比叡山延暦寺と同時にその末寺である廬山寺も一緒に焼き討ちしようと考えていました。
しかし、ときの正親町天皇(おおぎまちてんのう)が「廬山寺は戒律を遵守している寺であるから焼かぬよう」光秀に伝えました。
光秀がそれを信長に伝えた結果、焼き討ちを免れたため、廬山寺が光秀の念持仏を安置するようになったということです。

 


 

 

これが廬山寺に奉納されている、光秀の念持仏である地蔵菩薩です。
廬山寺の住職曰く、「通常、戦国武将は毘沙門天や不動明王といった、戦いの仏様を念持仏として持つことが多いのに、光秀公は地蔵菩薩を念持仏としていた。お地蔵さんを常に持ち歩くなんていうのは、よほど心優しい人でないとできない。」とのことでした。
テレビ放送より、光秀の念持仏であるお地蔵さんをご紹介します。

 

 

明智光秀の菩提寺は、滋賀県坂本にある西教寺です。


 

西教寺には、明智光秀とその妻・熙子(ひろこ)の墓があります。

 

 

西教寺の御朱印は、明智家の家紋である水色桔梗があしらわれています。

 

坂本の町の電波塔にも水色桔梗です。

 

光秀は福知山市では、かつての福知山城城主として今でも慕われており、
福知山音頭の歌詞には「明智光秀 丹波(たんば)をひろめ」と出てきます。
また、光秀は福知山では御霊神社の祭神として神にまで登りつめています。
したがって、信長を裏切った謀反者という一言では単に言い尽くせない、
大きな魅力を持った人物に違いないように僕には思えます。

僕は歴史の専門家ではありませんが、これからも歩き続け、光秀に関する新しい発見ができれば幸せに思います。

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